第一次世界大戦では、2つの多民族国家すなわちオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国がドイツとともに敗戦国となり、また、ロシア革命によってやはり多民族支配を行っていたロマノフ王朝のロシア帝国が滅んだ。
これによって3帝国(ドイツも含めれば4帝国)の支配していた東欧には一種の権力真空状態が生まれ、ウィルソンの提唱する民族自決主義の影響もあってパリ講和会議の結果、多くの独立国がここに生まれた。しかし、その国境線は、ドイツを包囲し、ソ連の影響力を封じ込めようとする連合国によって決められたため、いずれの国においても国内に少数民族を含み、民族間の争いが絶えなかった。二重帝国から独立したチェコスロヴァキアはドイツ系住民が多く居住するズデーテンを含み、ポーランドは旧ドイツ領とウクライナの一部を併合した。これらは、その後も複雑な民族問題を残すこととなった。
さらに、チェコスロヴァキアをのぞきいずれも農業国で、地主の力が強く、農民はまずしかった。農民の不満も大きく、政治は安定せず、ポーランドではユゼフ・ピウスツキ、オーストリアと分離したハンガリーではホルティ・ミクローシュ、南スラブ人王国の構想より生まれたユーゴスラヴィア王国ではアレクサンダル1世の軍事独裁政治がおこなわれた
アメリカにとって1920年代は、これまでにない繁栄の時代だった。流れ作業とベルトコンベアなどの機械化とを組み合わせたアメリカ式の新生産方式を代表するフォード・モーターは、安価な乗用車を大量生産し、定期的モデルチェンジ・広告・割賦販売など大量販売方式を組み合わせて、電気洗濯機や電気掃除機など快適な家庭電化製品やラジオ・映画の普及とともに、大量消費を楽しむ新しい生活スタイル(アメリカン・ライフ)や大衆文化をうみだした。
20世紀はじめに南部でうまれたジャズは、1920年代には北部の白人社会で受容され、各地にジャズ・バンドがうまれた。また、ホームラン王ベーブ・ルースの活躍などに代表されるアメリカ大リーグ、パット・サリバン創作のフィリックスやミッキーマウスなどウォルト・ディズニー・カンパニー製作のアニメーション映画、水着スタイルの最初の美人コンテストなど、20年代は、こんにちのアメリカ文化の原型が多くつくられた時代だった。
この時代のアメリカの繁栄を象徴するものに上述のラジオがある。1920年にピッツバーグでラジオ放送が開始されると、ラジオ受信機は急速に普及した。大量生産により生産されたラジオの保有台数は1929年には1,000万台に達している。これを通じ、ジャズなどの新しい文化が普及した。のちに世界恐慌のさいに大統領となったフランクリン・ルーズベルトはラジオを用いた炉辺談話を行って直接国民に語りかけた。また、ラジオ放送を可能にした電波は軍事目的にも利用されることとなった。
アメリカは、大戦で疲弊したヨーロッパ諸国にかわって世界経済の覇権を握り、国としても債務国から債権国に転じた。ニューヨークにはクライスラービルをはじめとする摩天楼(超高層ビル)が建てられた。この時代を「繁栄の20年代」「黄金の20年代」あるいは「永遠の繁栄」などと呼んでいる。
その一方で、孤立主義をとるアメリカは国際連盟には加盟せず、国内でも保守的なムードが強まり、1921年にはサッコ・ヴァンゼッティ事件が起こってイタリア系移民労働者が逮捕され、先述したようにKKKの活動が活発化し、また、異文化をもちこむ移民を制限する法律や禁酒法が制定された。繁栄の20年代は、一面では「不寛容な20年代」でもあった。禁酒法によりノンアルコール飲料が注目を浴び、1919年アトランタで始まったコカ・コーラは売り上げをおおいに伸ばした。一方、酒の密造・密売によって巨利を得たアル・カポネなどのギャングが暗躍し、シカゴではギャングの抗争が最高潮に達した。
また、「永遠の繁栄」がうたわれながら、この時代のアメリカ農業は不況にあえぎ、作物が収穫できても利益が残らない「豊作貧乏」の状態に陥っていた。
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大戦後のドイツとフランス
敗戦国ドイツでは、ヴァイマルにおける国民議会でヴァイマル憲法が採択され、ヴァイマル共和政が成立した。ヴァイマル憲法は、史上はじめて社会権を定めた当時最も民主的な憲法だったが、共和国がヴェルサイユ条約を受け入れて過酷な軍縮を行ったことは、急進的右派勢力などから激しい批判を受けており、一部の軍人はカップ一揆を引き起こした。1921年には、連合国によるロンドン会議において1320億金マルクという巨額の賠償金が定められた上、オーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票において、ドイツ帰属が多数(60%以上)だったにもかかわらず、地下資源が豊富な地域がポーランドに割譲されることになり、ドイツ国民のヴェルサイユ体制への反感は高まった。
ドイツは、巨額の賠償金に対し、その支払い延期を要求したが、フランスは賠償不履行を理由に1923年1月ルール工業地帯を軍事占領し、これに対する労働者のサボタージュもあって生産は極度に低下した。他方政府は紙幣を乱発し、23年10月にはマルクの価値が約1兆分の1になるというおそるべきインフレーションを招いた。各地で暴動が相次いだが、アドルフ・ヒトラーのミュンヘン一揆もその一つである。
1924年、ドイツはようやくドーズ案を受け入れ、信用の裏付けのある新紙幣レンテンマルクを発行して戦後インフレを克服し、アメリカの仲介で賠償支払いの軽減し、アメリカ資本の導入による経済再建をはかった。外務大臣グスタフ・シュトレーゼマンは協調外交を展開し、ロカルノ条約を結んでフランス・ベルギー国境の不可侵を約束し、1926年には国際連盟に加盟した。
一方、国土が戦場となったフランスは、戦後もドイツの大国化をおそれ、上述のように賠償支払いをきびしく要求し、レイモン・ポアンカレの右派内閣のときにはルール占領を断行した。しかし、対独強硬外交は国際的批判をあびて失敗し、1924年左派連合政権が登場した。25年に外相となったアリスティード・ブリアンはロカルノ条約によりルールからのフランス軍撤兵などを行いドイツとの和解につとめ、1928年にはアメリカ国務長官フランク・ケロッグとともに不戦条約を主導して国際協調に貢献した。