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2009年04月 アーカイブ

2009年04月04日

不浄負け

不浄負け(ふじょうまけ)とは、相撲の取組中に廻しの前袋が外れて局部が露になること。

露にした方の力士は即座に負けとなる。相撲の勝敗を決定する要素の一つではあるが、決まり手あるいは勝負結果の正式な名称ではなく、大相撲では勝負規定第16条に基づく反則負けとなる。

勝負規定 第十六条
前褌がはずれて落ちた場合は、負けである。
当然、アマチュア相撲でも同様である。

通常、廻しは何重にも硬く締めている為に、実際に起きることはほとんどない。また、廻しが緩んでいることが確認でき、勝負を止められる場合は、いわゆる「廻し待った」をかけ、土俵上で組み合ったまま行司が締め直すことになっている。このため、もはや不浄負けは不要なのではないかという意見も根強い。

不浄負けとなった取り組み [編集]

2000年5月場所 [編集]
2000年5月13日の三段目の取組、朝ノ霧-千代白鵬で朝ノ霧が負けているのが戦後唯一の例で、これは83年ぶりの珍事であった為に日本国内だけでなく海外にも打電されニュースになった。同年5月14日発売の日刊スポーツ一面では、この不浄負けを東京地区スポーツ紙5紙の中では唯一一面で起用。「決まり手はモロ出し」と見出しを打った上で、審判委員たちの「見えてる!見えてる!!」の叫びを赤明朝体文字で大きさを変えて載せるなど、強烈なインパクトを残した。

1917年5月場所 [編集]
1917年5月13日、男嶌-友ノ山の一番では同様に男嶌の前袋が落ち、友ノ山の勝ちとされた。

場所以外 [編集]
本場所以外では、1946年4月に京都で行われた準場所で、不動岩-五ツ海戦で五ツ海の廻しが外れて負けになったことがある。

備考 [編集]
「もろ出し」と言うこともあるが、これは「もろ差し」をもじった俗称であり、相撲の用語として使われることはない。
永井豪の漫画『イヤハヤ南友』には、主人公が相撲の大会に出場して相手の廻しを脱がして勝ち続ける話がある。これも一応は反則ではないわけであるが、実行は難しいであろう。
なぎら健壱の楽曲「悲惨な戦い」の歌詞に、若秩父のまわしがとれたとの内容があるが、フィクションであって事実ではない。同歌詞における取り組み自体、若秩父対雷電というありえないものである。

逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚

2009年04月19日

東欧諸国と民族問題

第一次世界大戦では、2つの多民族国家すなわちオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国がドイツとともに敗戦国となり、また、ロシア革命によってやはり多民族支配を行っていたロマノフ王朝のロシア帝国が滅んだ。

これによって3帝国(ドイツも含めれば4帝国)の支配していた東欧には一種の権力真空状態が生まれ、ウィルソンの提唱する民族自決主義の影響もあってパリ講和会議の結果、多くの独立国がここに生まれた。しかし、その国境線は、ドイツを包囲し、ソ連の影響力を封じ込めようとする連合国によって決められたため、いずれの国においても国内に少数民族を含み、民族間の争いが絶えなかった。二重帝国から独立したチェコスロヴァキアはドイツ系住民が多く居住するズデーテンを含み、ポーランドは旧ドイツ領とウクライナの一部を併合した。これらは、その後も複雑な民族問題を残すこととなった。

さらに、チェコスロヴァキアをのぞきいずれも農業国で、地主の力が強く、農民はまずしかった。農民の不満も大きく、政治は安定せず、ポーランドではユゼフ・ピウスツキ、オーストリアと分離したハンガリーではホルティ・ミクローシュ、南スラブ人王国の構想より生まれたユーゴスラヴィア王国ではアレクサンダル1世の軍事独裁政治がおこなわれた
アメリカにとって1920年代は、これまでにない繁栄の時代だった。流れ作業とベルトコンベアなどの機械化とを組み合わせたアメリカ式の新生産方式を代表するフォード・モーターは、安価な乗用車を大量生産し、定期的モデルチェンジ・広告・割賦販売など大量販売方式を組み合わせて、電気洗濯機や電気掃除機など快適な家庭電化製品やラジオ・映画の普及とともに、大量消費を楽しむ新しい生活スタイル(アメリカン・ライフ)や大衆文化をうみだした。

20世紀はじめに南部でうまれたジャズは、1920年代には北部の白人社会で受容され、各地にジャズ・バンドがうまれた。また、ホームラン王ベーブ・ルースの活躍などに代表されるアメリカ大リーグ、パット・サリバン創作のフィリックスやミッキーマウスなどウォルト・ディズニー・カンパニー製作のアニメーション映画、水着スタイルの最初の美人コンテストなど、20年代は、こんにちのアメリカ文化の原型が多くつくられた時代だった。

この時代のアメリカの繁栄を象徴するものに上述のラジオがある。1920年にピッツバーグでラジオ放送が開始されると、ラジオ受信機は急速に普及した。大量生産により生産されたラジオの保有台数は1929年には1,000万台に達している。これを通じ、ジャズなどの新しい文化が普及した。のちに世界恐慌のさいに大統領となったフランクリン・ルーズベルトはラジオを用いた炉辺談話を行って直接国民に語りかけた。また、ラジオ放送を可能にした電波は軍事目的にも利用されることとなった。

アメリカは、大戦で疲弊したヨーロッパ諸国にかわって世界経済の覇権を握り、国としても債務国から債権国に転じた。ニューヨークにはクライスラービルをはじめとする摩天楼(超高層ビル)が建てられた。この時代を「繁栄の20年代」「黄金の20年代」あるいは「永遠の繁栄」などと呼んでいる。

その一方で、孤立主義をとるアメリカは国際連盟には加盟せず、国内でも保守的なムードが強まり、1921年にはサッコ・ヴァンゼッティ事件が起こってイタリア系移民労働者が逮捕され、先述したようにKKKの活動が活発化し、また、異文化をもちこむ移民を制限する法律や禁酒法が制定された。繁栄の20年代は、一面では「不寛容な20年代」でもあった。禁酒法によりノンアルコール飲料が注目を浴び、1919年アトランタで始まったコカ・コーラは売り上げをおおいに伸ばした。一方、酒の密造・密売によって巨利を得たアル・カポネなどのギャングが暗躍し、シカゴではギャングの抗争が最高潮に達した。

また、「永遠の繁栄」がうたわれながら、この時代のアメリカ農業は不況にあえぎ、作物が収穫できても利益が残らない「豊作貧乏」の状態に陥っていた。
テリーヌ レーション パドック コラール ランド ブリス しし唐 レッド ダラス バスタ クロノグ ティング ドライ フルカップ ゴッド ハイド カナン シダレ りつりん ひぼう チカフ ナーバス なかふら ヨゴリーノ 高菜 ドアボーイ フレナ ユズリハ 潮の香り ブラック やしゃ オリンピピ ヤラピン イスア スラム ミラージュ ビート ワイポ クローニ オゾンホ プラン シトラス やなだに テラピア セレクト バック カイドウ バルブトゥ シティ あきう


大戦後のドイツとフランス
敗戦国ドイツでは、ヴァイマルにおける国民議会でヴァイマル憲法が採択され、ヴァイマル共和政が成立した。ヴァイマル憲法は、史上はじめて社会権を定めた当時最も民主的な憲法だったが、共和国がヴェルサイユ条約を受け入れて過酷な軍縮を行ったことは、急進的右派勢力などから激しい批判を受けており、一部の軍人はカップ一揆を引き起こした。1921年には、連合国によるロンドン会議において1320億金マルクという巨額の賠償金が定められた上、オーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票において、ドイツ帰属が多数(60%以上)だったにもかかわらず、地下資源が豊富な地域がポーランドに割譲されることになり、ドイツ国民のヴェルサイユ体制への反感は高まった。

ドイツは、巨額の賠償金に対し、その支払い延期を要求したが、フランスは賠償不履行を理由に1923年1月ルール工業地帯を軍事占領し、これに対する労働者のサボタージュもあって生産は極度に低下した。他方政府は紙幣を乱発し、23年10月にはマルクの価値が約1兆分の1になるというおそるべきインフレーションを招いた。各地で暴動が相次いだが、アドルフ・ヒトラーのミュンヘン一揆もその一つである。

1924年、ドイツはようやくドーズ案を受け入れ、信用の裏付けのある新紙幣レンテンマルクを発行して戦後インフレを克服し、アメリカの仲介で賠償支払いの軽減し、アメリカ資本の導入による経済再建をはかった。外務大臣グスタフ・シュトレーゼマンは協調外交を展開し、ロカルノ条約を結んでフランス・ベルギー国境の不可侵を約束し、1926年には国際連盟に加盟した。

一方、国土が戦場となったフランスは、戦後もドイツの大国化をおそれ、上述のように賠償支払いをきびしく要求し、レイモン・ポアンカレの右派内閣のときにはルール占領を断行した。しかし、対独強硬外交は国際的批判をあびて失敗し、1924年左派連合政権が登場した。25年に外相となったアリスティード・ブリアンはロカルノ条約によりルールからのフランス軍撤兵などを行いドイツとの和解につとめ、1928年にはアメリカ国務長官フランク・ケロッグとともに不戦条約を主導して国際協調に貢献した。

2009年04月23日

前方後円墳の分布

前方後円墳の分布は4世紀後葉前まで、主に畿内?瀬戸内海沿岸(吉備など)?北九州(筑紫など)に集中していた。そのため、ヤマト王権の支配権もそれらの地域を中心としていたと考えられる。しかし4世紀後葉になると、東北(仙台平野・会津地方など)から南九州(日向・大隅など)まで前方後円墳の分布が急速に拡大しており、ヤマト王権の支配権がそれらの地域へ伸展していったことの表れだとする見方がある。

この時期と前後して4世紀中葉(350年頃)からヤマト王権(倭国)は朝鮮半島との交易を開始した。当時の倭国には鉄鉱の産出がなく、朝鮮半島から鉄原料を輸入した。朝鮮半島の任那(加羅)は鉄の産地だった。輸入した鉄資源をもとに鍬・鋤などの農業用鉄製品が製造され、農業技術の革新・開墾の活発化などが起こり4世紀後葉から5世紀にかけて倭国の農業生産力は大きく向上した。これにより、経済力をつけたヤマト王権は鉄資源を求めて朝鮮半島へ経済的・軍事的に進出し始めた。ヤマト王権(倭国)は百済と連携して朝鮮半島南部への出兵を頻繁に展開し、このことは高句麗が遺した広開土王碑にも記述されている。また、朝鮮半島南部を中心にいくつもの倭独特の前方後円墳が発見されており、中国の史書からも倭への朝鮮半島南部の支配権を認める記述があることから朝鮮半島南部(任那)は大和王権が統治していた地と有力視されている。ヤマト王権と朝鮮半島諸国との交易が活発化した背景には、北方の高句麗から圧迫を受けつつあった百済が対抗のために近隣諸国(新羅・加羅諸国)と連携を強めていたことが挙げられる。この結果、ヤマト王権(倭国)と朝鮮半島諸国との関係・通交が活発化したのである。ヤマト王権が東北から南九州まで全国的に展開したことは、この朝鮮半島諸国との活発な関係・通交が密接に関係していると考えられている。

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4世紀後葉より以前ヤマトの王の墓はヤマト(奈良盆地)に営まれていたが、それ以降は河内平野に築かれることが多くなった。このことから王権の基盤がヤマトから河内へ移動したとする説、王権の基盤はヤマトだが海外通交の窓口となる河内を開発したとする説、それまでの王統が断絶して新王統が成立したとする説(河内王朝説)、などが提出されている。日本書紀の記述などから少なくともオオササギ王(仁徳天皇)は難波に本拠を置き河内平野を開発したことが判っており、当時の河川改修痕跡(難波の堀江)や堤防痕跡(茨田堤)も残存している。

5世紀に入ると、ヤマト王権の王は中国王朝へ朝貢を始めた。修貢して倭国王に冊封された王が中国史書に5名記されていることから、これらの王は倭の五王と呼ばれる。朝貢を行った理由・背景は明確にはなっていないが、おそらく朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)に於ける利権争いへの参入を有利に進めるためであろうと考えられており、実際に中国史書には倭へ朝鮮半島南部の支配権を認める内容を記している。中国や朝鮮半島諸国との通交・人的交流などにより技術や文化を持った多くの人々が渡来し、ヤマト(倭国)へ貢献した。渡来人(帰化人)は養蚕、機織り、製陶、建築などの先進技術や『論語』に代表される中国文化、文筆・出納などの実務技術をヤマト(倭国)へもたらした。ヤマト王権はこれらの渡来人や全国各地の豪族たちを徐々に組織化していくとともに(部民制の形成)中央の豪族層を大臣・大連を頂点として系列化していった。これにより、5世紀ごろには簡易な官僚制が形成されていたとして、それまでの王の権威を権力の源泉としていた「ヤマト王権」から王を中心とする政治組織が権力を担う「ヤマト政権」への転換がなされたとする見方もある。

この期間のヤマト王権(ヤマト政権)を代表するのがワカタケル王(雄略天皇)である。ワカタケル王に比定される倭王武が中国へ送った上表文にはヤマト王権が各地を征服していった様が記述されているが、考古史料からは倭国内部に独自性を持った首長層が多数存在していたことが示唆されている。このことから、当時の実態はヤマト王権が他の首長より優越はしているが強い支配関係にはなく、ヤマトと他地域の連合政権的な性格だったと考えられている。日本書紀の記述から、5世紀後半には吉備や播磨、伊勢などの首長がヤマト王権へ対抗するなどの動きがあったと推測されており、そうした中で登場したワカタケル王は強化した軍事力をもとに各地の首長への支配力を強めていった。

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