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航空母艦適合テストで十分な結果

1959年に始まり1960年2月15日に空母インディペンデンスにおける初の離着艦全通試験など一連の航空母艦適合テストで十分な結果を得たアメリカ海軍は1961年に正式にF-4Bの艦隊配備を開始した。

アメリカ大西洋艦隊初のF-4飛行隊となったのは空母フォレスタル搭載となる第74戦闘飛行隊だった。太平洋艦隊は1962年に空母キティホーク搭載の第114戦闘飛行隊がF-4Bの引き渡しを受けている。
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配備開始2年後の1963年時点でF-4保有飛行隊は6個となっていた。この時点でも旧世代のF3HデーモンやF4Dスカイレイを運用中でありF8UもF-4と並ぶ主力戦闘機だった。それに対してアメリカ海軍は1965年の時点でF-4を搭載可能なミッドウェイ級以上の空母11隻の全飛行隊へのF-4を配備しようと計画した。1隻当たり二個飛行隊分を配備しようとすると単純計算で244機を必要とし、同時期にアメリカ軍が北ベトナムへの爆撃を開始したこともあり、F-4飛行隊の増強が続いた。

アメリカ海兵隊は海軍への配備開始から一年後の1962年から配備を始めた。F-4Bを初めて受領したのは第531戦闘攻撃飛行隊で、翌1963年には第314戦闘攻撃飛行隊が受領し、同年10月に日本の厚木基地へ派遣されている。日本への配備は東南アジアから最短距離にあるためベトナム情勢を鑑みてのことだった。戦争中期頃からは施設の整備の進んだフィリピンの基地を使用するようになった。

F-110A (F-4C)当初、F-4は艦載機として開発されたが、空海両軍での戦闘機の共用化によるコスト削減を目論むマクナマラ国防長官の方針もあって、空軍規格に改められた機体をF-110「スペクター (Spector) 」として採用した。1962年に3軍統一の機体命名法が施行されるとF-4に改めている。

F-4が当時のアメリカ空軍戦闘機に勝っていたのは艦載機としての離着艦性能確保のための低翼面加重であった。ミサイルキャリアーとして開発された機体であり空戦性能向上を意図した大きな主翼ではなかったが副産物としてまずまずの格闘空戦性能を発揮した。これに対して当時の空軍機は要撃機および戦闘爆撃機が主体で空戦性能の劣る機体ばかりであった。ベトナム戦争が本格化する直前の1964年、F-4Cを受領した第555戦術戦闘飛行隊が那覇空軍基地の第51戦闘迎撃航空団に配備された。

またアメリカ空軍は当初海軍に提案されていたF-4の偵察型をF-4Cの機首を改造した戦術偵察機RF-4Cとして導入した。アメリカ海兵隊でもF-4B/Jを戦術偵察機に改造したRF-4Bを導入した。これに対してアメリカ海軍はRF-4を採用せず、RF-8やRA-5やその後継としての偵察ポッド装備のF-14でより偵察を行なった。

ブルーエンジェルスのF-4Jは青く塗装された1969年にF-4Jを導入し全米やヨーロッパでアクロバット飛行を披露した。アジアでは日本や韓国にも飛来している。日本に飛来した際にはその騒音から住民から苦情が寄せられた。その為「もう日本には来ない」とブルーエンジェルスのメンバーは激怒したという。これが原因なのかは不明だが以降ブルーエンジェルスは来日していない。

サンダーバーズ
ブルーエンジェルスと同じく1969年にF-4Eを導入した。

南ベトナムに駐留するアメリカ海兵隊のF-4B (1966年1月)
爆弾を投下するアメリカ海軍のF-4とA-7
F-4Cのインテーク ベトナム戦争で北ベトナム空軍機を4機撃墜した戦果マークが入れられているF-4は最大8発搭載の空対空ミサイルのうち4発のAIM-7ミサイルと当時としては際立って有力なアビオニクスによりレーダー捕捉段階で視界外から敵機を撃ち落すことを可能としたミサイルキャリアーだった。

しかし、F-4初の実戦となったベトナム戦争ではレーダーでは敵味方判別をできないことから生じた同士討ちの結果として視認前のミサイル発射を禁止されたりミサイル装着時の部品の破損などの人的ミス等によるミサイルの信頼性の低下等によりF-4の特質が十分に生かすことができず、また、開発時に想定していない空対空格闘戦という状況に対して訓練不足と兵装の制限[14]のために苦戦を強いられることになった。

北ベトナム空軍の運用するMiG-17やMiG-19、MiG-21等は旧型ながら優れた機動性と制約の少ない機関銃を持ち、地上管制の元で限定された戦術目標を達成すれば充分という有利さからF-4をはじめとするアメリカ軍の戦闘機部隊を苦しめたのである。また撃墜数自体は勝っていたが乗員が2名なので戦死者の数は敵より多かったともされている。

アメリカ海軍
アメリカ海軍のF-4が初めて実戦参加を果たしたのは1965年3月の「ローリング・サンダー作戦」だった。それ以前にもF-4飛行隊が乗艦する空母が北ベトナム沿岸に展開していたが北ベトナムの航空戦力はほぼゼロに等しいので最新鋭のF-4の実戦投入は不要として見送られていた。

3月29日には第151戦闘飛行隊のF-4B二機が北ベトナム上空で撃墜され初損失となっている。4月29日には中華人民共和国の領空を侵犯した第96戦闘飛行隊のF-4Bが中国人民解放軍空軍の戦闘機に撃墜されている。

同年6月17日、空母ミッドウェイの第21戦闘飛行隊のF-4B二機がハノイの南方80kmで遭遇したMiG-17の4機中2機をすれ違いざまにスパローミサイルで撃墜し、はじめてF-4の火器管制能力を発揮するに至った。これは全アメリカ軍を通じてベトナム戦争初の撃墜記録となった。以降、アメリカ海軍のF-4BとF-4Jは北ベトナム軍戦闘機を36機撃墜しているものの、ほとんどがサイドワインダーによるものだった。

アメリカ海兵隊
ベトナム戦争開始後、在日アメリカ海兵隊にも前線への出撃命令が下され、F-4飛行隊も南ベトナムのダナン基地やチュライ基地に進出した。後に激戦期と呼ばれることになる1968年末における任務は南ベトナム国内で活動する共産軍の制圧のための通常爆弾やナパーム爆弾、ロケット弾、ガンポッドによる対地攻撃であり、空中戦とは無縁の日々が続いたという。それでも、展開するF-4飛行隊は五個に増強されていた。当時2機のF-4を失ったものの乗員は全員救助されている。

だが1972年以降、攻撃目標が南ベトナムから北ベトナム、特にラオスを経由し南ベトナムに伸びる大補給ルート「ホーチミン・ルート」に移ると損害は増加した。北ベトナム軍正規軍の装備する対空砲や対空ミサイルにより、3機のF-4の損失と2名のパイロットの行方不明という損失を蒙っている。

アメリカ空軍
アメリカ空軍はF-105やF-111などの戦闘爆撃機を次々と投入した。だが爆弾を満載し機動性の低下したF-105などにとっては、北ベトナムの主力戦闘機MiG-17は旧式機と言えども侮り難い敵だった。格闘戦に巻き込まれ爆装を投棄した時点で相手の戦術目標は達成しており、熱帯雨林という精密機械には適さない環境によりミサイルを武器とする戦闘機はその能力を著しく落としていた。

1965年4月3日、2機のF-105がMiG-17に撃墜されたことを受け、空軍はミグ戦闘機の掃討任務の為にF-4C飛行隊七個を南ベトナムに、三個飛行隊をタイ王国に駐留させた。

しかしながら、1965年から1966年までのわずか一年の間に撃墜や事故など様々な原因で54機のF-4Cを損失している。初期トラブルの顕現と対応が不十分なままで実戦投入されたため戦場で燃料漏れや主翼への亀裂の発生が現れたこと、ミサイルの使用に様々な制限や問題があったこと、機関砲を装備していなかったことが挙げられる。

D型・E型の登場

展示されるM61A1「バルカン」
画像は航空自衛隊のF-4EJの為にライセンス生産された「JM61A1」1966年2月からマクドネル社の生産ラインはF-4CからF-4Dに移行した。また、1968年11月からはF-4として初めて固定武装として機首にM61A1機関砲を搭載したF-4Eの部隊配備を開始している。

損害
機関砲搭載のF-4Eが格闘戦に何とか対応できる機体として配備されたといっても状況は厳しかった。1971年末までに361機のF-4C/D/Eが対空砲や地対空ミサイル、ミグ戦闘機により撃墜されており、停戦が発効する1973年までも損害は拡大している。

湾岸戦争
1991年に勃発した湾岸戦争にもF-4が投入された。この時は制空任務等を後継機であるF-15などに譲り、作戦運用上最後の派生型となったF-4Gがワイルド・ウィーゼルの任に就いた。

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2009年01月27日 14:07に投稿されたエントリーのページです。

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