1965年のコンスタンティノス2世国王によるゲオルギオス・パパンドレウ首相解任を切っ掛けに、ギリシア内政は左右の対立が顕在化。国王が度々首相を指名しては反国王派が多数を占める議会が不信任するということが繰り返され、政局は不安定さを増した。
1967年4月21日、大佐となっていたパパドプロスを中心とした陸軍将校がクーデターを決行、検事総長のコンスタンティン・コリアスを首相につけて戒厳令を敷き自分は総務長官に就いた。全ての政党は解散され、パパンドレウやパナゴティス・カネロプロス首相など主だった政治家も拘束される。
コンスタンティノス国王も当初はクーデターを追認したが、政権の実権を握ったパパドプロスの専横に嫌気が差し12月13日に自ら決起した。しかし軍の多数派の支持を得ることが出来ず結局国王はローマへ脱出、パパドプロスは自ら首相に就任し名実共に独裁者となった。
独裁の強化と共和制への移行
1968年8月13日には元軍人で抵抗運動の指導者の一人だったアレクサンドロス・パナグリスがパパドプロスを暗殺しようとするが、未遂に終わる。これを期に秘密警察による国民の監視と検閲などによる言論統制を強化、政権に反対する政治家や共産主義者と思われる者たちを逮捕して国外追放あるいはマクロニソス島へ収監した。パパドプロスはこれらの圧政を共産主義の巻き返しに対抗する為だと述べて正当化したが、アムネスティは軍事政権下で多くの人々が受けた拷問の詳細を報告している。
1972年3月21日には摂政を兼任すると共に、共和制への移行を宣言。1973年6月1日に大統領に就任し、文民のスピロス・マルケジニスを首相に指名して(名目的ながら)民政移管を実現した。
独裁の崩壊と失脚
1973年11月17日にアテネ工科大学でパパドプロス独裁に反対する学生が蜂起し、独裁政権の基盤が揺らいだ。直後の11月25日に腹心で秘密警察の長官だったディミトリス・イオニアデスがクーデターを起こし、パパドプロスは失脚し自邸に軟禁状態に置かれた。
クーデター後に成立したフェドン・キジキスの軍事政権も、翌1974年にキプロスのクーデターに介入したことを切っ掛けに海軍・空軍が離反して崩壊。その後の民主化の過程でパパドプロスら軍事政権の指導者は起訴され、パパドプロスも反逆罪で死刑を宣告された。その後終身刑に減刑され、恩赦も拒否しながら1999年ガンにより獄中で死去した。
民主化後のギリシャで彼は独裁の象徴と見なされている。多くのギリシャ人はパパドプロスを近代ギリシャ史における汚点だと考えているが、支持者もおり政党(ΕΠΕΝ EPEN)を結成したが、現在この政党は解散している。またパパドプロスにはCIAとのつながりがあったと言われ、事実冷戦期の米ソの対立の中でギリシャの軍事政権はアメリカの支援を受けていた。
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