1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、彼はマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼は彼によるものだった。マッカーサーが米陸軍でする仕事はほとんど無くなり、ケソンの求めに応えてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。
マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、マニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。
1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した[1]。
1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。
1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、太平洋戦争突入後の12月18日付で大将に昇進した。ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、彼よりアジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたが、彼は大変不満であった。一度は名目上とはいえ「元帥」に就いていたし、自分は中将なのに、同じくフィリピンを本拠地とするアジア艦隊の司令長官で、知り合いでもあったトーマス・ハートが大将なのも気に入らなかった[2]。 中将になってからも「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していた[3]。
12月8日に太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。2ヶ月に渡って日本陸軍を相手に善戦していると、アメリカ本国では英雄として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。しかし、実際には救援の来ない戦いに自分たちが苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。一方、ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを憎んでいたが、彼が戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、彼の口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。
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コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からB-17でオーストラリアに飛び立った。この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。
南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。
1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸し、現地の日本軍の戦力が弱体化していたことにも助けられ、翌年には全土の奪還に成功した。 この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。